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2025-07-25 15:00:00

実録 バストゥーン ー1ー

実録 バストゥーン

 虫の音響く秋ともなれば、花粉症のおさまる翌春までというもの、陸路空路の片道二十時間からをかけてはるばるアメリカ中西部まで赴いては、ホワイトオークだのウォールナットだのといった自社突板製品の中で大きな比重を占める北米産の原木を買い付けに回るのが常である。

 そのかたわら、稀に西海岸へ行くことがある。目的は、クラロウォールナットである。カリフォルニアの強い陽光を浴びて育ったこの材は、瘤杢、縮み杢といった希少な木理を抱き、艶かしいほどの美しさを湛えている。大きなものになると直径で1Mをゆうに超え、その迫力と美しさから一枚板市場でも見た目と価格双方において威容を誇る。

 私が丸太の検品を行ったあの日は四十度を超える熱暑で、手に持ったコカコーラもたちまち湯立つような馬鹿げた灼熱の只中にあった。

 土場には、でっぷりとした体躯のクラロが立ち並んでいる。見比べれば一本一本がその姿を異とするけれども、ひとたび目が合えばそれらのどれもが我こそが優れているのだと威張ってきそうな、前のめりの迫力をそなえている。そこにしか取り柄のないボディビルダーや特別な乗り物の操縦士が、己の肉体や肩書きをひけらかした際に「凄いですね」の二言目を期するが如く、クラロたちもまた己の唯一他よりも優れたる『逞しさ』において、見る者の感心を得たがっているように思われた。

 検品の折、たまに吹き荒ぶ容赦のない風に土場の砂煙が舞うと、べっとりと汗に濡れた顔面全体が、きなこをまぶされた餅のように砂で包まれる。もはやガスコンロの弱火となら良い勝負ではなかろうかという猛烈な陽射しを浴びながら、だくだくとした汗の塩気に日焼けた肌を刺される。頭頂にとめどなく芽吹く汗の粒と粒とが次々と合わさってやがて大きな飛沫になると、ぷよぷよの大連鎖のように止まらぬ滝となって額をダラダラと垂れてきて、その塩辛さに目が開けられない。首から上の汁感が、絶えずアロエの断面みたいになっている。

 このように、人よりもずいぶん汗が顔中に滴るのは全て、私に毛髪がないからに他ならないのであったが、砂塵と塩気とが織りなす一連の不快は、眼前のクラロから木材にそなわるべき一切の繊細さを奪い、硬い糞のような頑固さだけを残した。やれこの丸太は目が寄っているだの、これは一見良いが地面に膝をついて丸太の裏側をよく覗くと雷に当てられたような縫い傷があるだの、意地の悪い評論をぶちながら良し悪しを勘定していたところが、どれもただの木に見えてきた。

 私は保険や株を扱う人、あるいは土地の相場師などが各々の商材を仕入れるに際してどのような判断基準や悩みを抱えているものやら、その真奥については畑違いなので知る由もない。けれども、およそ商いとは飽きないである。考えに考え、思考を巡らせすぎた挙句、脳の糖分が足らなくなったところに抜かりなく現れる、達観とも諦観とも取れる妥協に基づいたような、易き道を選ぼうとする妖しい心の境地。疲れただとか、面倒臭いだとか、そういうだらしない気持ちが先に出た側が、商売はまず負ける。心の膿んだ境地においてなされる決断は、悪球を投げられた岩城がきっとで描く放物線の如き明白な未来予想図なのであって、私はまずこの場で決めないことを決めた。

 私の気が抜けたところを察したのであろうか、今回はこれらの丸太の他に、世にも稀有なるバストゥーンがあるからぜひ見てくれろと、サプライヤーからオファーを受けた。バストゥーンとは、ヨーロッパに自生するイングリッシュウォールナットとクラロウォールナットの交配種で、人間が偶然に作り上げた産物である。現存する大径木は極端に少なく、大変な価値をそなえる。

 イングリッシュの強い筋目に、クラロの絢爛たる杢柄の絡むこのバストゥーンの特徴は何といっても圧倒的な縮み杢にある。殊に、59’バーストのようなカーリー杢をびっしりと全面に詰まらせた一枚板においては、その褐色の材面を光が走るたび、幾重にも折られた陰影の山脈が立ち現れ、見るものを魅了する。指でなぞれば平面に過ぎないこの錯視的な凹凸は、射光の角度の数だけ表情を持ち、甲虫の皮革のように滑らかでいて硬質である。我々は、このような奇跡的な木の筋肉の断面を、常よりきっと銘木として崇めているに違いなかった。

 案内された場所で私は、生まれて初めてバストゥーンの立木を見た。枝手前の幹の全長で4M超、直径も胸高で1.3M程度はあっただろうか。まず立派な木である。樹皮の妙に白いところが、ふだん見慣れたクラロや中西部のウォールナットとは一線を画し、バーチャファイター2のアキラでは必ず白道着を選択していた私の気に入った。

「これを伐採すればきっと高値がつきましょう」

 案内者は、匂わせるようなことを言うばかりで肝心の価格を決して自分からは言い出さないのであった。巨大な立木を前にそこからしばらくは他愛のない話をしていたのであるが、段々と日も暮れてきたところからその日のうちに商売を決めたい彼の方から売りたい値段がぽつぽつと言葉の端に出てきて、喩え話や過去の流通価格を盛んに交えながら牛歩の速度で本質にジリジリと近づいていくと、どうやら彼は私の想定を遥か超えたところの、丸太一本あたりで自動車以上を目指しているらしかった。のみならず、伐採してみたらもっと高くなる可能性すらあるという。恐るべき逆説の盛り合わせである。



 ところで木材の値段は、一般的に体積によって決まる。日本では、直径と長さを掛け合わせて材積を求め、それに単価を掛けて価格とする。

例:直径50cm 長さ4m ㎥単価30万円の場合
0.5×0.5×4=1立方メートル

 これに、30万円の単価をかけて、丸太一本の価格を30万円とするのである。私たちは丸太の話をする際に、㎥あたりいくらなのか、という言葉と、一本あたりいくらなのだという言葉を使い分けながら会話をしている。これが少し前の世代になると、石(こく)を用いたりもするけれども、私より新しい世代に石を多用する方はあまり見られないように思われる。ひとえに、日本の木材の度量衡が建築に基づいて尺貫法から次第にメートル法へ移行し、ひとまず落ち着いているからなのであろう。

 ヨーロッパやアフリカ諸国も、それぞれのややこしさは抱えているけれども㎥という前提に立っているので寸法を捉えるに際して大きな困難はない。ただ、世界でも数少ないヤード・ポンド法を用いるアメリカだけは一筋縄ではいかない。長さや径級はインチ及びフィートで計測し、材積の数えにはMBFを用いる。しかも、その計測方法も地域ごとに異なり、ドイルスケール、スクリュブナスケールそれぞれが運用されている。

 加えて西海岸では、木材の価格は体積ではなく、重量によって決まる。伐採した丸太の重量を実際に計測し、その重さから価格を定めるのである。彼らの言う、伐採してから価格が上がり得るというのはまさしくこのためであった。

 それにしても、重さを計測した後にようやく正確な価格が決まるというのは、買い手たる私にとってはあまりに痛烈な後出しである。何しろ「測ってみたら意外と重かったね」の一言で数千ドルからの上振れも有り得るというのだ。地に生えた樹木の重さを目見当で正確に言い当てるという生涯に一度使うか分からぬ奇特な能力は、孟嘗君に集うた食客ならいざ知らず、到底私の有するところではない。

 私は、私自身の原理原則に基づいて、この丸太がいくらで売れるであろうかを想定しながら品定めを始めた。弩級の価格を提示されているので、立木を見る目もしぜん本気になる。だが虎バターになるほど幹を何周まわれども、いまいち購入に踏み込めない。

 通例、私たち目利きは伐採された丸太を見ながら良し悪しを定める。木の形状や表皮の動きから節の気配や心(しん)の動きを推察したり、年輪に鼻を擦り付けるように匂いを嗅ぐことで材が腐っているのかを判別したり、叩いて中身のウロ(空)や割れを確認したりといった具合に、五感を駆使してその中身を吟味する。分けても小口/丸太の断面こそが最も重要な判別要素で、そこに見える割れ、年輪の乱れ、心の位置など、これらを見てようやく内実の半分くらいを分かった気になれるというもので、その上でなお完璧に見誤るのが丸太という厄介な相手なのである。

 ところで、私が音楽を貪っていた若い時分は、今のようにサブスクリプションで手当たり次第につまみ食いをできるような便利な環境にはなかったので、聴くにはまず現物のCDやレコードを買ったり借りたりした。『昔こそが良く今は退化の最中である』という過去への憧憬が、物心ついた時分には音楽のみならずあらゆる方面に対して芽生えていた私のような懐古趣味の人間は特に、時間と小金さえあれば都度ディスクユニオンのような広汎に品を揃える店へ通い、平置きされたラックの中に整然と並ぶ中古盤を、レコードコレクターズを師範に据えて隅から隅まで漁ったものである。

 ただ、座学と実地の違いと言うべきか、CDを人差し指や中指でパタパタと倒していくと、雑誌では見たことがないけれども、いかにも良さげな一枚みたいな代物に鉢合わせることがある。この場合に良さそうと踏む理由は、全体のアートワークが良いとか、アーティストの面構えが良いとか、画像の粗さに味を感じるとか、様々であるが、共通しているのは見る者にとって『ジャケットが良い』ことである。ジャケットという視覚情報から、全くその芸術の本質を異とするところの音楽の内容を連想し、良い気がする、いや良いに違いないという、独善的ではあるけれども確信に似た自信を伴うこの通称『ジャケ買い』は、結構ばかにならない精度を持っている。それはきっと、自分の好きなバンドやアーティストの活躍した時代に好尚とされた写真の撮り方だったり、デザインの方向性だったりといったような、音楽を包む雰囲気の全てが、それらを聴き擦る傍らで知らぬ間に血肉となり積み重なっていたからに他ならず、これまでの足跡を自ずから踏み外さない趣味のジャケットを直感的に選ぶことで、好きなものに巡り合う打率を高めていたのであろう。

 私のジャケ買いを思い返してみれば確かにそれらのほとんどは芯を食っていたし、我が趣味の太い幹の真ん中をこそ歩まずとも、どこかに自分好みの片鱗が隠れていて、聴き込むほどに今度はその音楽が己の枝葉になってゆく、といった作品がまず大半であったように記憶している。

 CDのジャケットを見ずに買うということは、たとえそれがツェッペリンのように圧倒的な名を売るバンドであれ、ただの一度もなかった。拍子と表紙の関係性、などとつまらぬ韻を踏むよりもっと緻密な情報の絡みが音楽とジャケットとの間にはあるのであって、この話を長々と引き合いに出したのは、丸太の小口と中身の関係もまさしくそれなのであると、置換して伝えたかった次第であるが書き散らかした感は否めない。

 ジャケットを見ずにCDを買えば、百枚買ったとて全てMCハマーである。同様に、小口の見えない丸太をその中身があたかも無欠であると盲信して最高の単価で買いつける行為は、従来私たちの法る慣例に沿うてみれば人外の所業である。しかるに立木のままでのバストゥーンを買おうとしている今の私は、掟破りの逆卍とも呼ぶべき既存の体制に対する一つの裏切りなのであって、プロレスの喩えも古いのであった。

 私がこの木を見るにつけ気になったのは三つの点である。まず一つはアタリの悪さ。

 幹がまん丸ではなく扁平なこの木は、真正面から見るとよく太って立派だが、真横に立つと貧相に見えた。我が家の長毛種の猫が毛を梳かれる前と後のようなギャップを持っている。幅の広い方向に製材ができたらさぞ素晴らしい一枚板が取れるだろうが、本割れのせいで狭い方向に製材せねばならぬ場合には少し頼りない出来栄えになりかねない、まずはそんな気がした。

実録 バストゥーン
剛毅な左、虚弱な右。同じ丸太も角度を変えればこれだけ見え方が変わる

 加えてもう一つ、二股に分かれた枝から真っ直ぐ走る窪み。もしこれが入皮だとすると、一枚板の中央に稲妻めいた裂傷が入る。Y型のウォールナット一枚板に非常にしばしば見られる症状で、これが出ると美観に大きく影響してくる。
実録 バストゥーン
 最後にもう一つ、幹自体のねじれである。雑巾を絞るようにねじれている丸太は、内部の割れもねじれていることがある。これに当たってしまうと最後、何枚製材しようとも割れが背後から幽霊のように追いかけ、決して綺麗な一枚板には仕上がらない。

 けれども一方で、狭い方向に製材しても板幅で1Mは超えるのだから太いことには太く、窪みも単なる幹の凹みかも知れず、北海道の糠栓のようにねじれていようとも内部の割れには影響しない個体もあるのだからと、良い方向に夢を編む頭もある。

 眺める角度で都度表情を変える思わせぶりな美女のようなこの怪樹は、三重苦を背負っているようにも、或いは一切の重荷を免れているかのようにも見え、その両義的な性質が私の決断をどこまでも鈍らせた。

(このバストゥーンこそ、かの有名な伝説の樹の正体で、私の惑いの対象は、藤崎詩織であったのかもしれぬ)

 ともあれ、私はその場で購入を決めた。空は夕暮れの色を帯び、赤焼けた空を背に悠然と立つ銘木も、ただその輪郭だけを薄らと映すばかりではこれ以上の良し悪しもない。逡巡する思考の中で私は、カミュに倣って『太陽のせい』と呟くほかなかったのであった。

一部完


実録 バストゥーン ー2ー へ続く