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2023-06-22 14:43:00

インドローズ譚

 私は職業柄、稀に半世紀も昔のマホガニーやローズウッド材に触れることがあります。埃の堆積は年月の証、すっかり灰色がかった材面に手のひらを当ててみますと、そこに閉じ込められた人々の息吹が感ぜられるもので、買い手の狂騒、現地労働者の切り出しの労苦、暗躍する現地ブローカーの高笑い、全ては私の妄想ですが、いわゆる銘木華やかなりし時代という、届かぬ望郷を嘆じないではおれません。

 

 今回こちらに掲載させて頂くのは、1970年頃から実際にインドローズを日本へ輸入していた方の回顧録です。当時を知る上でたいへん面白い読み物となっておりますので、ぜひご一読ください。

 

(深城)

 

 

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 わが国では、江戸・明治の頃から紫檀・手違い紫檀(ローズウッド材)を和楽器や和家具の材料として使う伝統がありました。しかしながらこれらの製品や材料は大変高価なもので一般庶民が日常使い出来るようなものではありませんでした。

 

 戦後の混乱も収まり経済活動も正常化に向かい出した1960年代から比較的に高級な婚礼家具や建築の内装材として(主に突板として)、また輸出用食器・ナイフの柄用の材料として同じ紫檀系のインド産ローズウッドの輸入・使用が始まりました。

 

 私が職を得ましたT社においては、当時大阪の港にて専門の輸入業者がインドから仕入れてきたローズウッド材を買い付けていました。社員を大阪に送り、そこで検品買い付けをして、工場に送り製材・スライスし、壁材やフロアー製品を作り全国向けに販売しておりました。

 

 そんな社のオーナーの次の目標は、社員を大阪港を飛び越えて世界中に派遣し、世界の銘木を直接買付けする事でした。

 その第一候補として私を選び、社の戦略人材として 即席特訓で育てる事が役員会で決められました。まず入社後 3カ月で木材の基本の基を製材所・スライス工場で学び、その後2年間を当時日本一の家具産地であった大川市にあるT社営業所に赴任し具体的に営業しながら、さらに広く深く木材の勉強をするようにとの社命でした。

 2年でこの過程も無事終え、その後約半年間、再度製材・スライス工場にて勉強の仕上げをやり 日本での海外銘木の流通中心地大阪へ赴任し T社大阪営業所を社員6名で立上げる事となりました。

 

**ここで面白いのは、特訓などと言いながら、私に体系立てて教えるような先生のような方は一人もいなくて いわゆる“おまえ勝手に学びなさい”と、それぞれの部門の詳しい先輩に自分が疑問に思う事を質問し教えてもらうというようなやり方でした。

 

 ところが、これも次の海外仕入れになると私に教えてくれるような人材は社内には全くゼロで、仕事を通じて自分で勝手に学ぶしか方法はありませんでした。今から思えば、一人前のバイヤーになるまでには結構ミスした買付けもあった筈ですが、それでもそれなりに売れて行ったのは、高度成長が始まりつつあった1970年代という正に時代のおかげでしょうか?

 

 こうして 1972年秋に海外出張の練習の感じで香港・フィリピンへ赴き少々の買い付けを行った後、12月中旬からビルマ(現ミャンマー)へチーク材・インドへローズウッド材の買い付けの旅へ出発しました。

具体的にインドには入ったのは12月20日過ぎでした。ヨーロッパからのバイヤーがクリスマスで全て帰国するので、当時バイヤーとして中心勢力であるヨーロッパ勢との衝突を避けたがいいとの考えからでした。

 

 この辺はインド各地に支店網をもつ大手商社からの情報を基に判断したものです。

 先ず、当時取引されていたローズウッド材の品質と主な産地について述べてみます。

 

A.ケララ州南部

 元々ローズウッド材を豊富に産し色鮮やか※1で、縞目も濃く、材の硬さもほどほどと加工もし易く、昔から一番の産地であるといわれています。

 州都トリバンドラム市が集材の中心でしたが、私が行き始めた1970年代になると一帯からの出材も減り、ローズウッド材が出品されるオークションには良材目がけてたくさんの輸出業者が外国人バイヤーを伴い参加する事もままあるので、当然値段は高くなりました。

 

B.デカン高原

 ケララ州南部産が数量的にも単価的にも天を打っていた関係で次に注目されたのが、海岸沿いのケララ平野から、標高300m~600mと言われるデカン高原への斜面がひろがる地域です。斜面と言えばたいした広い土地のようには思いにくいのですが、デカン高原自体がインド亜大陸の約南半分を占め、南北約1500kmあり、その斜面となると相当な広さとなります。

 この一帯は目の前にアラビア海が広がり、この海から日中の熱で作られた蒸気が偏西風に乗り、デカン高原の斜面に十分な水分をもたらします故、お茶やコーヒーを栽培するのに向いています。ただ南インドという土地柄、昼間の太陽光はかなり強いのでそのシェイド(日陰作り)としてローズウッド材などが古来より植えられており、その一定数を材木として売ろうという事でした。

 色はナス紺、材質は比較的柔らかい(水の供給がよいので)、材長も比較的長く、材径も比較的大きいのが出てきました。ただし消毒液※2の掛け過ぎたのが中にあり色の見分けには神経を使いました。それ故、長くて大きい材が多い割には安価でありました。

 

C. デカン高原の上、斜面から登ったところ

 一般的にはマイソール産と言われるもので、当時流通の中心はこの材でした。マイソール産はケララ南部産に比べると色の鮮やかさに於いては少し薄いかもしれないが十分赤く、材は大径は少ないが通直材が多く、単価も比較的安く、当時の需要の中心だった建材用には打ってつけの材でした。

 私はマイソール南部をカリカットに本拠を置くK社、北部をコーチンのB社と取引しマイソールの林野庁土場と彼らの本拠地を交互の感じで訪問し取引しました。私の狙い目が建材用(所謂家具用等の超高級ではないもの)だったので定期的に訪問し、回を重ねるごとに私の買う品質や数量などの理解が進み、彼らとしても満足のいく安定的な商売となっていきました。

 このローズウッド材の商売をベースとして、B社はその後ホンダ自動車の現地ディーラーとして大成功したとの事です。

 

 かくして私のインドとの取引は順調に始まり拡大したのですが、会社のほうがいつまでもインド・ビルマ等ばかりやることは許してくれませんでした。会社としては次の本命である「アフリカを何とかせー」という事で東南アジアの買い付けを他の担当に譲り、その後は1年に1回行く程度となりました。

 インドローズ自体の取引も70年代末ごろから輸出の数量規制、そして原木輸出禁止となり1980年代中頃には、一部の製材品や単板を除き所謂『インドローズの取引』なるものは終わりを迎えました。

 

 しかしながら、私のローズウッドとの関りは、その後も続くことになりました。1980年に会社を退職した私は会社を辞める時の約束に従い、アメリカ材の取引を軌道に乗せるべく80年からの約5年間は年の大半をアメリカ(北米)で過ごしました。

 そのうちにアメリカの取引先に中米のメキシコ・グアテマラを旅してみないかと誘われて行ってみました。そこでまず見つけたのがホンジュラス・ローズウッドでありシリコテでした。

 

 それぞれ楽器関係と和家具等に歓迎され、シリコテなど東京の私のお客さん(銘木問屋さん)とそこのお客さんの協議の結果『シャム柿』などと見事なネーミングを頂き発見者の私としてはうれしい限りです。ホンジュラス・ローズウッドの方もたまたまその価値を見出してくれる本物の楽器職人さんに出会い素晴らしい木琴・マリンバとして今もって世界の市場で歓迎されている様です。

 

 ここで私は発見者と言いましたが、本当の発見者は現地の住民たちです。彼らはそれらの材で古来から色々な工芸品を作っており、それを現地の方から私は見せてもらったわけですから日本への紹介者と言うほうが正しいでしょう。

 その後、韓国の友人を訪ねたとき若い材木関係の方から、「自分は中米関係のプロだけど、面白い木がある、名前はシリコテという、あなた知ってますか?」と言われた時には、大変驚きましたが、韓国の友人と大笑いしました。

 

 そして、その後見つけたメキシカン・ローズウッドやボコテを含め1980年代末ごろには現地政府の輸出規制が相当きつくなり、私の取引先も当然私も現地政府の法律の下をくぐるような事はしたくないということで1990年頃に輸入することを止めました。

 

 

 そして時は流れ私がインドを旅していたあの頃から数えて約35年後、家内を伴い南インドを再訪しました。草ボウボウで滑走路の周りではヒツジやヤギが草を食んでいるような長閑なコーチンの空港は完全な近代的な空港に生まれ変わっておりました。当時はプロペラ機しか乗り入れてなかった空港でしたが、新空港にはジャンボジェットが何機も駐機しており南インドを代表する大国際空港に変身し、今では南インドと中東諸国をつなぐゲートウェイとなっているとの事。町の人口も当時40~50万と言っていましたが、何と大コーチンでは現在200万とかで、私達ローズウッドバイヤーが定宿としていたカジノホテルは、ただの質素なビジネスホテルから4スターのリゾートホテルに変身していました。

 

 もっと驚いたのはもう1つのローズウッドの町カリカットでした。

 当時のカリカットはキャピタルオブペパーと言われ、インドの香辛料貿易の中心地でした。数百軒ものペパー屋さんが軒を連ね、そのペパー市場を出たすぐ近くに材木屋・製材所が軒を連ねる通りが川沿いにありました。その通りは朝から晩まで材木を積んだトラックや、其々の店で働く職を求めるクーリー達であふれており、大変活気のある街でした。

 

 ところが、時を経てあらゆる様相が変化してしまったせいで、そのカリカットがどこにあるやら皆目見当がつかなくなっていたのです。宿泊していたホテルからタクシーで出かけ、あの川・そこにかかる橋・ペパー市場・川沿いの材木屋通り、私の頭の中の記憶をたどりながら何遍廻っても、ローズウッドの街が見つかりません。とうとう諦めてホテルに帰った私は、35年振りにこの町へメモリアルジャーニーのために来たこと、今回のインドへの旅を計画したのもその為であることをホテルの支配人に伝え、協力をお願いしました。

 そうしてみたところ翌々日の夕刻になって、昔材木屋さんがたくさんいた通りがあるそうですという情報があり、すぐにタクシーで駆け付けました。

 行ってみたら、確かにそこは橋のたもとから小さな通りがあり、その通りと川の間にはずっと昔の製材所らしき材木関係の会社が連なっていました。しかし私の頭の中にあるカリカットのローズウッド通りではありません。どこかシーンとして、あれだけ商売で走り回る人・クーリー達や大八車であふれかえっていた通りからすっかり人が消えてしまいました。私の付き合いだったK社の場所には、K社ではない別の看板がかかっています。近くにあったN社も見当たりません。余りの変わりようにとうとう隣の会社に飛び込み「隣にあったK社はどうなったのですか?」と問うてみました。

「K社ならもう50米程先だ」ということで50米ほど行くと、確かにそこには以前より小さめではあるけれどもK社の看板がかかっておりました。中に入って行くと、社長らしき人が出てきました。が、どうも私の記憶にあるDさんではありません。

「私は弟です。兄はあなたが来なくなって2~3年後に亡くなりました。今は私がここにいる若いパートナーとローズウッドではない安い木を製材して細々とやっております」

との事でした。兄の息子がいますので何なら会ってみますか?という誘いを受けたので、会ってみる運びとなりました。

 

 --この後、その日の夕刻に、その息子さんとの正に私のメモリアルジャーニーにふさわしい感動的な出会いがあったのですが、その部分は余りにも個人的な部分でもあり、今回は割愛させてもらいます—

 

 このようにインド産に代表されるローズウッド材は、日本人には大変付き合いの長い貴重な材でありましたが、インド産ローズウッドの将来的な減少を考慮して、私のいたT社は1970年代から現地のモラード材を単板にして日本へ送るため、南米ボリビアに工場を建設しました。しかしこのモラードも80年代後半になると日本での需要も減り大方1990年ごろで日本向けとしての工場の役割を終えました。

 私がやっておりましたH.ローズウッド材やシリコテ等の色の赤いものや黒いもの等、いわゆるトーンの強いものは、日本の歴史上最大の高度成長という時代背景があってこそのものであり、その後バブルの崩壊と共に、もっと軽い・明るい色へと変化していきました。

 

その後、私は世界各地で中国人バイヤーと会うこととなりますが、「ああ、やはり経済と銘木というものは、国こそ違えども似たような動きをするなあ」と思います。彼らはかつての日本人がそうであったように希少な銘木を求めてここ数十年のマーケットを荒々しく躍動しております。

 

そしてそれらの若い中国人バイヤーを見るにつけ、昔日を偲んで想うのです。

「ああ、30~40年前の自分もまた、こんな顔をして世界を飛び回っていたのか?」 

と。

 

※1

当時、インドローズのうちもっとも価値があるとされたものは、ローズの代名詞としてよく言われる『茄子紺の紫』ではなく、もっと鮮やかな赤味がかった地の色にクッキリとした縞目のある材でした。

日本の場合、タイ、ラオスからの本紫檀が枯渇した流れでインドローズに需要が傾いたこともあり、この本紫檀を一つの理想としたため、そのような嗜好があったものと思われます。

 

※2

当時のインドではコーヒーを栽培するにあたり、虫害を防ぎ収穫高を上げるため、非常に多くの消毒液(農薬)を使用していました。当時の私ですらこんなものを口にして大丈夫なのかと案じたくらいで、兎角健康を云々しがちな現代人にはちょっと考えられない量でありました。

そのようにして土中に蓄積された大量の農薬を、そこに根を張るローズウッドが吸い上げることで根元から変色を起こすのでした。丸太を半分に割りますと、ちょうど根っこから半分くらい、雲のような靄のような、モヤモヤとした変色が発生しているのです。当然、売り物にはなりません。

そんな博打な産地なものですから、私はこの産地の材については日本へ丸太が入ってからも、極力それを購入してくれたお客さんが製材する際には現場に立ち会って中身の良し悪しを確認したものです。

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